「端っこ柔道」 ~五段になって振り返る~

柔道界の端っこで居続けた自分がまさか五段に昇段するなどと全く思っていませんでした。ご興味の沸く部分だけでもお読みください。

目次

■柔道を始めた                                <中学時代>
■柔道を始めてみたら                       <中学時代>
■黒帯になれた!                             <高校時代>
■そんな黒帯がありなのか!             <高校時代>
■先生のいない高校柔道部                <高校時代>
■技の研究に没頭                             <高校時代>
■異種格闘技戦                                <高校時代>
■辞めたら其処迄                             <高校時代>
■電通大柔道部入部                          <大学時代>
■日本代表女子は強いのか                <大学時代>
■恵本が金メダル                             <大学時代>
■つまらぬ柔道                                <大学時代>
■柔道部の仲間                                <大学時代>
■部活を活気づける                          <大学時代>
■日本武道史に触れた                       <大学時代>
■東京都国公立大学戦                       <大学時代>
■渕杯柔道大会                                <大学時代>
■実践柔道とプロ柔道                       <20代後半>
■柔道と仕事                                    <20代後半>
■千葉県で再スタート                       <30代>
■子供たちが柔道を始めた                <30代>
■娘は泣いてばかり                          <30代>
■少年道場と小学校                          <40代>
■四段に昇進                                    <40代>
■五段への意欲                                <40代>
■月次試合(つきなみじあい)         <40代>
■五段への最終関門                          <40代>
■脇道と本道                                    <40代での思索>

■柔道を始めた■

中学3年の時に双葉中学校で柔道を始めた。その時の顧問の吉村先生は三段だった。
なぜ柔道を始めたかは2つ理由がある。
一つは新築の柔道場に入りたかったからだ。当時、双葉中では柔道の授業をやれる先生がいなかった。したがって柔道場に入るには基本的に柔道部に入るしかなかった。
もう一つは切実で、当時の市原はヤンキー全盛時代で、理不尽な暴力も一つのカッコよさとして通用していた。
僕は歯医者の息子で「お前の家の歯医者の治療は痛い」などとちょくちょく難癖をつけられていた。その頃の僕は、弁は立つがケンカが弱く、不良たちからのイジメにあっていた。だからそのイジメに勝つために柔道をやって強くなりたいと思っていた。

■柔道を始めてみたら■

柔道を始めたころは部活そのものが創部したばかりで全員白帯だったから普段周囲に黒帯はいない。市原市内の大会で100人くらいの中学柔道部員があつまると初段の黒帯が1人か2人いた。茶帯でも市内優勝級の時代に黒帯は遠い目標だった。
柔道をやり始めて1年くらいたって感じたことは、桁違いに強いやつが日本には無数に居るという事。いくら稽古をやっても勝つ見込みがない選手が大勢いるという事。

ヤンキーの殆どは心身ともに弱い人間だという事。
試合は相手が強すぎて目標にすらならないという事。

■黒帯になれた!■

高校生になって1年生の終わりごろ柔道を始めて約2年、市原中央高校柔道部顧問の高橋正美先生(四段)の車で木更津の至真殿まで連れて行ってもらい初段に合格した。昇段では試合形式の試験があった。勝ったのはこの時が初めてだった。相手は中学生の白帯だから「大手を振って勝ちました」とは思えなかった。
このころ県大会などで高段者の先生にお目にかかる機会を得て黒帯より上の赤白帯の存在を知る。なんとなく「何段ぐらいから先が紅白帯なのかな~?」くらいで、自分とは関係ない世界に感じていた。補足すると初段から五段が黒帯、六段から八段は紅白帯。柔道八段は昇段制度上の最高段位である。
とにかく黒帯になれたのは嬉しかった。その反面まだまだ実力不足だと自覚していたので黒帯に恥じないよう稽古しようと決意していた。

■そんな黒帯がありなのか!■

とにかく夢の初段に上がったことは自分としてはとても嬉しかった。同時にこんなに沢山稽古をして年月をかけないと初段は取得できないのかとも思った。高校生の頃クイズも好きだった私は同学年卓球部の関くんとTV番組のクイズ大会に頻繁に参加していた。その時、クイズ会場で仲良くなった都内の高校生の津田君は柔道の授業で初段を貰ったという衝撃の事実を僕に告白。

その話を聞いて柔道界への憤りと脱力感の両方を感じていたのを覚えている。

■先生のいない高校柔道部■

高校の柔道部は本当に弱い部活で人数もいないのだが、僕が2年生の頃顧問の高橋先生は30代の若さで病死してしまったので、指導者もいなくなってしまった。
先輩たちは我々のパワーに押されてか、僕らが1年生の夏休み明けからほとんど来なくなっていた。1年生の終わり頃には同学年の加藤君が2年間主将をやる事になっていた。
僕は3年生になりやっと一回戦を勝ったり負けたりできるようになってきたが、高校通算勝率は1割未満だった思う。
先生もいない、先輩もいない、授業の都合で練習時間も短い、決して恵まれてない環境であったが、高校時代に自由で自治のある部活動ができたのは、その後の人生に大いにプラスとなっている。

■技の研究に没頭■

試合で勝てなかったのもあるが、高校時代は技の研究開発にとても熱心に取り組んでいた。
もともと理屈好きだったので技の理論の部分を掘り下げて、技の研究をしたり練習方法を考えたりと、それを試して結果を出す事を楽しんでいた。
この時に先生や先輩にとやかく言われずとことん追求できたのが本当に良かったのだと思う。
柔道の創始者嘉納師範も国内外のあらゆる格闘技・武術からヒントを得て柔道を生み出したと知った。当時の僕は締め関節技が好きで、この頃サブミッションの本や格闘技の本を読みまくっていた。嘉納師範の様に広い視野から自分の柔道に役立てるためだ。
この頃世間では前田日明や高田延彦がUWFという格闘技性の強いプロレスを流行させていた。次第に「最強の格闘技とは?」という疑問とその命題自身が醸す芳香に取り憑かれて行った。

■異種格闘技戦■

そのころ同級生でジャンボ鶴田の大ファンの山崎君が周囲にしつこく鶴田の魅力を伝えるので、一部の凝り性の仲間が影響され格闘技・プロレスブームが巻き起こった。そんな仲間たちと格闘技では何が強いのか?はたまたプロレスの魅力について毎日昼休みの柔道場で語り合っていた。
そんなとき「いずれはリングで戦えたら面白いよな!」と仲間のだれかが言ったときおおいに盛り上がった。プロになったり、ジムに入会したりするのは大変な事だ。それにそれでは自由気ままにリングで戦うことはできない。でも作ればそのリングは俺たちの自由だ。

僕はリングを作ってそこで最強の格闘技は何か見せる大会をやろうと言い出した。これが高校の文化祭で異種格闘技戦という爆発的人気の企画を生み出した。異種格闘技戦の時間帯は他の企画がガラガラになるくらいの超人気企画で僕のイベント&リング人生の原体験になった。
そのころ丁度、深夜番組で学生プロレスというお下品なプロレスがあって、その影響も大いに受けて結局はお笑い色の強い見世物になってしまった異種格闘技戦だが、空手、柔道、ボクシング、合気道、はたまた北斗神拳も出場。
役とは言え選手それぞれが個性を出せる場が本当に楽しかった。この時僕が攻防の監修をしてほとんどの試合の台本を作っていた。格闘技に関する技の攻防の自然な流れに詳しかった事と、柔道が黒帯であるという裏打ちがなければこれほどの求心力はなかっただろう。

■辞めたら其処迄■

高校入学した時に同学年に棚倉くんという市内の中学柔道の強い選手がいた。
中学生時代に彼は重量級優勝級選手で僕から見たら殿上人であった。柔道部に入らないかと誘ったが、もう柔道はやりたくないとのことで入部しなかった。この後も高校大学を通じて柔道の才能があってもやめてしまった人々に大勢出会っているが、いくら強くてもやめてしまったらそこまでなのだ。
辛かろうが飽きようが少しでもいいから柔道の稽古を継続することが自身の成長と心身の守りになると今は実感している。

■電通大柔道部入部■

1年浪人してその間は柔道の稽古を満足できる程できなかったが大学が決まったので、入学する前の3月、早速柔道場に赴き入部をお願いした。
本当に早く思い切り柔道がやりたかった。
電気通信大学柔道部は顧問に柳澤先生(おそらく当時六~七段)という日本女子柔道の父ともよばれ漫画YAWARAに実名で出てくるくらいの柔道界の有名人であった。しかし柳澤先生は全日本女子強化で多忙のため我々弱小柔道部の指導は1年の一回あればラッキーくらいの事だった。
実は本当にラッキーなのは先生が連れてくる日本代表クラスの女子と一緒の道場で稽古をできるという事だった。

■日本代表女子は強いのか■

当時の僕はTVで柔道の試合に出てくる選手は当然怪物級の強さで絶対にかなわないと思っていた。しかし実際は一緒に稽古してみると、全日本で上位の女子選手でもその中、幾人かは互角に乱取りできるのである。そのうち先方の手の内が分かってくると勝てるようになるのだ。

柳澤先生に訊いてみた
「先生。スピード・パワー・テクニック全てが自分より上の女子選手が何故僕に負けるのですか?」

師曰く
「女だからだ」

男性と女性では格闘センスと体幹がそもそも違うという見解であった。しかしそれでも流石は五輪を狙う彼女たち、素人男子には絶対に負けない。白帯なんかは当然秒殺しで、そもそも組ませてもらえない。
女子72㎏級で日本一にもなった福場さんは電通大のトレーニング室にしばしば姿を現していた。「すげー体の女がいる」と噂になる程のマッチョでパワーも抜群、1年の頃の僕は一度も勝ったことがない。
当時柔道部では三つ目の性別「男子・女子・戦士」と言う冗談もあった。

■恵本が金メダル■

いつも一緒に稽古している恵本裕子選手がオリンピックで金メダルを獲得。これは日本女子柔道史上初の快挙であったが、何かピンと来なかったのを覚えている。わざわざ五輪のお土産のTシャツを部員全員にくれたが、部員のみんなの反応はイマイチであった。今思えば失礼極まりない態度である。
夢の金メダリストが俺たちみたいな弱小柔道部と互角でいいのか?と疑問に思っていたのかもしれない。
今思えば、彼女たちが弱かったわけではない。柔道を中学高校と続け大学でも継続した努力が実り始めていたということだ。
弱小大学柔道部であっても大学4年近くになってみると中学高校柔道では絶対に敵わなかった県大会上位の選手にも勝ててしまう事が多々あるのだ。

■つまらぬ柔道■

大学時代は部活週4回の稽古、自主練1回の週5回稽古をしていた。車輪のように繰り返し稽古していく。傍から見ればつまらないことに見える。当時都内の一般的な学生がしているような恋愛や夜遊びやアルバイトから比べたら地獄に近い。
近所の大学の学生に
「勝てもしないのにずっと同じ事をやっていてつまらない人達だ」
とも言われた事もある。似たような言葉は他でも何度も聞かされた。

当時の僕の柔道部活動は充実していたから稽古をやめる気は全然なかった。試合に負ける、それでもまた明日から稽古を繰り返す。
何故か。
ほんの少しの成長を感じることが楽しく、また稽古がしたくなるからだ。

■柔道部の仲間■

そんな日々の僅かな成長であるから、自分では感じられない時もある。そんな時期の稽古はつらい。しかし必ず仲間が見てくれている。一緒に稽古している仲間がほんの少しの変化にも言葉で、態度で、技で、敏感に返答してくれるのだ。

<電通大柔道部歌>
畳の上に集えしは
鍛えるうちの若き志士
稽古の後に
汗と微笑み
喜び友と分かち合う
おお電気通信大
柔の道に栄えあらん

強豪大学から見ればペラペラの電気通信大学柔道部でも稽古を継続する価値は確実にあった。

■部活を活気づける■

電通大柔道部はそもそも人数が少ない。学業の関係で時間が取れない。先生は立派だけど稽古にはいない。魅力が乏しい部活とも言える。後輩を教える立場になると練習参加人数の確保は大変重要な課題だ。稽古する人数が居なければ稽古そのものが成立しない。だから少なくとも僕だけは必ず稽古に行く。
普段の稽古の他にもやる事は山積みだ。新入部員を勧誘する。出稽古を企画する。部活で調布祭(学園祭)に参加する。新しい事をどんどん試す。
この大学での部活を経営する経験は会社をつぶさない経営に役に立っている。

■日本武道史に触れた■

学生時代に教養の単位で自由に科目を選択して講義を受けるチャンスがあった。僕は柳澤先生が直接講義をするという日本伝統武道論を選択した。かつて日本は武家社会でありながら鎖国し海外兵器の情報を絶った。そして平和な世の中だからこそ武道が異常に発達したとの見解が、半年間の講義で深く展開された。
この講義を聞いて僕は日本文化を体現しつつ伝承できる柔道を稽古し続けられる事に名誉と責任を感じるようになった。

■東京都国公立大学戦■

当時の電通大柔道部がもっとも力を注いでいた大会は都内国公立大会だ。この大会は20年間ずっと優勝は絶対王者学芸大学、準優勝は東京大学でその次を文系学部中心で練習時間が豊富な都立大、一橋大学が続き、人数の少ない単科大学である電通大、農工大、東工大、水産大、商船大、医科歯科大、外語大が後を追うという完全なヒエラルキーが存在していた。
電通大での地味だが着々とした稽古の成果が表れ始めた。僕が3年の時、3位入賞になったのだ。
都立大と激戦の末、代表戦にもつれ、これに僅差で勝利したのが当時のエース米倉だ。その時の嬉しさを思い出すと今でも鳥肌が立つ。
僕が4年になる頃に指導者もない、殆ど自主練しかしていない電通大に最盛期時代が訪れた。若き日の柳澤先生が直接指導していた時代にも劣らぬチームになっていた。この年はオーダーがハマれば東大でも勝てると分析をしていた。
部活の活気は揚揚で稽古にも人が集まり充実した稽古を日々こなしていた。
国公立戦はトーナメントを組み合わせるための抽選会が事前にある。この抽選会には通常各大学主将一人が参加し組み合わせや大会運営の話し合いを行う。
この抽選会には主将の僕と去年の勇者米倉が気迫十分、わざわざくじ引きだけの為に参加。

「団体戦だけは俺にひかせてくれ」と気合一発!!

一回戦はよりによっての ・・・学芸大・・・
最後の国公立戦は惨敗で一回戦負け・・・

でも僕の大学柔道部は人生の大充実だった。

■渕杯柔道大会■

渕杯等と自分の名前の柔道大会ができるとは学生時代には思ってもみなかった。このころ電通大柔道部の主要な試合は春に集中しており秋から冬の大学同士の試合はTAMA杯という個人戦一つだけだった。
1998年4年生になって水産大・商船大・農工大と仲良くなっていた僕は、新しい団体戦大会をつくろうとコンセプトを作った。
1.五人制の抜き試合:7人も部員を揃えられない部活でも参加できる。
2.団体戦経験の浅い選手に活躍の場:先鋒次鋒は65㎏以下または白帯または女子、女子と男子の場合は男子からの締め関節禁止などのハンデを設けた。弱い柔道部は今後柔道競技で食っていける訳ではない。柔道を通じて短い期間でも、少しの機会であっても苦楽を共にする事ができる仲間づくりが重要だと付け加えた。
そのために商船大に主幹をお願いして南房総で合同夏合宿を行った。そして2か月後に東京都理科系柔道対抗戦と銘うち初回大会が実施された。
これには時期的な利点もあり大いに賛同を受け、当たり企画に成長した。その後数年たつうちに他大の後輩たちの中で愛称であった渕杯がいつの間にか正式名称に代わっていたのであった。
少しずつ形を変えながら2018年現在もこの大会は続いている。

■実践柔道とプロ柔道■

2段3段と昇進して大学卒業し、西暦2000年にリング&イベント会社を起業した。2002年頃から小平に戸建てを安く借りており、そこが拠点で変わり者が集まっていた。
しかし世の中不景気であったし、若造が突然始めた会社と取引してくれる所も僅かで仕事は暇だった。結局大学の柔道場に数年が良い属ける。
学生時代から研究していた打撃を柔道乱取りに融合する実験を続けていたからだ。独自でアマチュア大会「実践柔道大会」を企画して実施した。
格闘技通信やゴング格闘技にちょくちょく取材されてアマチュア格闘技ではちょっとした求心力を持つようになっていた。
そのころプロ格闘家転向で世間を賑わせていた吉田秀彦氏が接触していたJ-DOという関西で興行をしていた総合格闘技的柔道があった。そこの代表の池田氏とも交流するようになり、プロ格闘技興行の世界にも踏み込んだ。
プロ柔道旗揚げの時、企画側の東日本代表として参加し、なんと京王プラザホテルで記者会見にひな壇側で出席した。その後、プロ柔道旗揚げ興行のスポンサーサイドから派遣されて来ていたプロデューサーが旗揚げ大会直前に突然逮捕されてしまって大会も旗揚げも中止。
血のにじむような努力も全て水泡に帰した。
事後処理して見ると、このプロ柔道事業周辺には悪い大人がワンサカ集まっていた事が分かった。そんなこんなで脱力しきっていた僕だったが、都立大の柊君他、方々の後輩たちが心配して励ましてくれた。本当に感謝である。
それがきっかけで立ち直り、またイベント本業と実践柔道活動に精を出すようになれた。仕事も柔道も格闘技・プロレスの興行とは一定の距離とる事にした。「実践柔道はアマチュアで行こう!」ということになったので、会社と実践柔道会の社会貢献を兼ねて完全体重別少年少女柔道大会を府中で3回やった。
子供メインのエンドユーザーをターゲットにする事は、とても手間がかかる事がよく分かった。この経験が元でわが社はエンドユーザーを狙う事業からは距離を取りB to B中心の事業展開になって行くことになる。

■柔道と仕事■

起業したばかりの頃は取引先がなかったが、そのときに武器になったのが柔道でのつながりだ。起業後間もなくイベント会場設営の下請けをやるようになる、広い会場で椅子を並べたり旗をくくったり単純だが分量がある仕事だ。とにかく人手が必要で各大学の柔道部に声をかけてアルバイトをしてもらった。仕事の後は必ず自宅兼会社にもどり打ち上げ飲み会で盛り上がった。神奈川県のトライアスロンの仕事でどうしても大型クレーンが必要な現場があった。これがクリアできれば大きな取引を継続的に任せてくれるというチャンスだ。
曽木機工という調布柔連の先生が経営するクレーン会社があった。普通だったら取引開始できないが、この社長さんは学生時代から僕を見てくれていて、柔道をあれだけ一生懸命にやるのだから仕事もしっかりやるだろうと言って、信用してくれ取引に応じてくれた。
曽木先生は25t大型クレーンと最高のオペレーターを格安で手配してくれた。この後、神奈川県トライアスロンの仕事は数年間わが社の基軸になっていった。
僕が30歳くらいの頃、水産大学の柔道部の後輩で若くして広告事業も行う大きな会社を経営するようになった大丸君に再会した。
僕が企画した南房総の合宿の思い出等を引き合いにしてくれて、本当に親切にしてくれた。
彼のアドバイスで格安で商品の売れるWEBを作ってもらえた。この時色々と教えてもらえたおかげでWEBでの営業でかなりのアドバンテージとなり、その後は年商も3倍に飛躍した。

■千葉県で再スタート■

結婚して子供が生まれた頃、事業も大きくなり広い置き場が必要なわが社は家賃が高い東京を脱出し千葉に戻った。そうなると今まで拠点にしていた電通大も府中の体育館も不便になる。
四街道に引っ越したので地元の柔道やブラジリアン柔術の道場に主催ではなく一会員としてお世話になる事にした。これが非常に気楽でよかった。学生時代から道場運営をしながら稽古をしていたので、単に稽古に参加するのはこれほど気楽なものとは気づいていなかったのだ。
現在は道場運営をなさっている各先生方、役員の方に心底感謝している。このあとは40歳になるまで、事業、地域活動、家族活動に軸を置いた生活をして柔道は気分転換として年間十数回やる程度になっていた。それでも柔道に助けられる。
仕事で大事故を起こして心理的ショックを受けて仕事が手につかない頃、とりあえずやる事もないので道場に顔をだして稽古仲間と汗をかいたらなんとなく開き直りまた仕事を再開することができた事もあった。

■子供たちが柔道を始めた■

3人の子供たちが柔道を始めてくれたおかげで、自分もまた柔道をしっかり稽古したいと改めて思うようになった。子供たちは紅柔道少年団という名門に入団して稽古をしている。紅の強い子はなんと全国制覇してしまうのであるが、うちの子はほとんど毎度一回戦負けである。子供には試合に勝つことだけが目標の柔道は求めていない。とにかく継続する事を望んでいる。
僕は仕事や地域団体の活動で紅の稽古時間となかなか合わず稽古を見てあげられない。子供たちの柔道意欲を上げるにはどうしたらよいかと考えていた。
僕は僕なりに体力づくりや稽古をして背中を見せるくらいしかないか・・・。

■娘は泣いてばかり■

初めてすぐの頃、次女は道場で泣いてばかりだった。男子は稽古でアタリも強い。このままでは継続も難しいと感じることもあった。泣いている次女の小佑紀にある先生が聞いてくれた。「せっかく稽古に来ているのに、どうして泣いてばかりなの?」次女曰く「こゆは柔道やりたくないの。パパに無理やりやらされているの。」・・・・正直すぎる返事だ。聞いた先生も思わず笑いそうになったと言う。
僕が柔道をやらない父親で、普通の習い事として通っていたら彼女もこんな言葉にはならなかっただろう。この小佑紀の言葉を聞いて僕はこども達に柔道をやる意味を言葉で伝えたほうが良いと考えた。
「学校も楽しい。家も楽しい。このままだと毎日楽しい事ばかりだ。しんどい事を覚える為に柔道をやるのだよ。」
長女が「蟻とキリギリスみたいなものだね」と咀嚼してくれた。下の子たちもその例えで飲み込むことができたようだ。

■少年道場と小学校■

子どもたちが柔道を始めて数年経過した。相変わらず試合では負けてばかりだったが、学校体育のマット運動では目立って出来る部類になっていた。
うちの子供たちが所属する柔道少年団にはイタズラや悪ふざけが大好きな男の子が沢山いる。例えば講道館のロッカー室でカクレンボしていたら鍵がかかって閉じ込め騒ぎになったり、試合会場を抜け出し近所の池に落ちたり。このようなエピソードは枚挙にいとまがない。この子達がもし柔道をやっていないと本当に唯の悪ガキである。そんな悪ガキが稽古で有り余るエネルギーを発散する。自分より強い奴に負けて悔し泣きをする。精力善用に叶う実例だ。
うちの子は皆小さくて、背の順では一番前の方にいる。そんな背が小さく体も細い長女が小学校6年の時に学校で男子に足を引っ掛けれたり、小突かれたりしていたことが分かった。見ていたクラスの女子が「渕さんがかわいそう」だと言ってくれたのだ。
しかし長女はそもそもこのイタズラ男子を気に留めていなかった。長女曰く「柔道の稽古がきついし道場の男子の悪さが凄いから全然気にならない」。
長女はそんな柔道少年たちに揉まれ、学校の悪ガキ程度は目じゃなくなったらしい。

■四段に昇進■

40歳のある日、偶然参加できた紅の稽古で松ケ迫先生が昇段の話を持って来てくれた。君は実績あるから推薦してあげるから書類で審査して昇段できるよ。との趣旨であったがそんな甘い話はなく結局は形をみっちり稽古する事になった。柔道の勧誘は「楽だから」と誘われて始めてみたら地獄なのは今も昔も変わらない・・・良き伝統でもある(笑)
この時一緒に稽古してくれたのが紅で先生をやっている伊藤4段だった。彼は実家が柔道場で大外刈りが強烈な立ち技主体の王道の柔道をする。技術も確か、性格も温和、尊敬すべき柔道家である。
同じ地域に段位も身長も年齢が近い人がいる。これは非常に幸運な事だ。
昇段を目指して分かったことだが世のなかに柔道3段以上の人が非常に少ない。だからまず出会えない。したがって昇段を意識するのであれば高段者の方と出会ったら全員と仲良くしていく必要がある。
幸運な稽古相手に恵まれた僕は順調に稽古を進め四段に昇段できた。
柔道歴の長さの割に三段を20年近く務めたので遅めの出世とも言える。

■五段への意欲■

四段に上がったとき母や子供たちなど家族の反響が大きかった。また三段時代は一生三段でよいとも思っていたほど長く務めたので、早く昇段して一線級に段位だけでも追いつきたいと思い始めていた。五段に上がったら嬉しいとの子供たちの言葉にも後押しされて、最短期間2年での昇段に挑戦する事にした。
今まで地方柔道会で昇段してきたのだが総本山の講道館で一度くらい昇段したいという考えも出てきた。地方柔道会の推薦無しで講道館が直接段位を授与するのは五段までなので、最後のチャンスともいえる。

■月次試合(つきなみじあい)■

五段昇段に向けての最初の関門は試合だ。公式試合で勝てば1点、負けたら0点、引き分けたら0.5点が貰える。折角のチャンスなので柔道試合で最も歴史がある月次試合に参加する事にした。月次試合は1884年からほぼ毎月行われている。この試合は段位毎で行われる。したがって僕の試合相手もすべて四段だ。生易しい相手は一人もいない。
体作りからやり直しだ。そして技の組み立て戦略も見直した。学生時代は内股と巴投げが立ち技の中心だったが、寝技が好きなのでついつい寝技の稽古が多くなりがちで立ち技の稽古不足が否めない。内股は補助技に回すことにした。
今の僕が四段の猛者達に立ち向かえるのは中学以来ずっと得意の寝技で勝負に行くしかないと考えた。
立ち技は受けに回って相手の投げ技を我慢する。相当な実力差が無いと受けに徹した相手を投げるのは難しい。これで投げられたらそもそも完敗と言うことして、拾える試合をしっかり拾うことに徹した。
受けているうちに相手が止まる時が来る。この瞬間を待って巴投げに入る作戦だ。巴投げが不発なら寝技で勝負。
この巴投げから寝技という流れを基軸において重点的に稽古をした。
この作戦が功を奏して目標予定の18か月より早く、10か月で目標の10点を超える11.5点を獲得。最後の2017年5月では3連勝であった。
月次試合では普段はお目にかかれない皇宮警察や実業団クラスの一流の選手や他県の道場主とも対戦するチャンスを得たのはいい経験になった。並みいる強豪を相手に負けたり勝ったりしたのは我ながら天晴ではあったが、怪我なく試合をこなせたのが本当の幸運であった。

■五段への最終関門■

試合の次の関門は形だ。千葉地区では今回五段に昇段を考えているような人は出会えなかった。形の手本の映像を見て一人稽古。対人の稽古をする為に講道館への出稽古。五段の審査に指定されている極の形(別名真剣勝負の形)を錬磨していった。この時同じ地域に相手がいたらどれほど円滑に稽古ができたであろう。
結局危惧していた通り特定の相手を見つけられないままで試験に直前になってしまった。
最後の関門は相手探しだ。普段いないものは仕方がないので、現地調達作戦とした。試験当日五段を受けに来る人にお願いして一緒にやってもらおうというわけだ。しかし悪い予感は的中。この日五段受験者は僕一人。
まだ僕は諦めなかった。その日同じ会場で形練習をやっている黒帯に片端から声をかけまくった。そんな僕を憐れんでか、初対面にも関わらず試験とは無関係に形の稽古に来ていた絹江女子五段が相手を承諾してくれた。そのお陰でなんとか一発合格を果たした。
四段昇段から2年と1日間。念願の最短での五段昇段に成功した。

■脇道と本道■

学生時代を通じて柔道を修行していたが、僕は柔道で身を立てようとしていなかった類なので、学業が本道ということになる。僕には柔道があったから本道とのコントラストがハッキリしていた。柔道より本道に精力を尽くす。そんな意識が当たり前にできた。受験勉強や卒業研究は柔道より頑張らないといけない。仕事も同様。家庭も同様。柔道を頑張ると否応なく本道が底上げされると言う筋道になるのだ。だからこそ脇道も適当に力を抜くことも必要だ。
本道がままならないときは脇道が助けになる。僕にとっては脇道とはいえ本道にも勝る多くの人たちが彩ってくれた大道である。今日の道場で感じたこと、あの時先輩が教えてくれたこと、脇道が本道の浮世とはまた違った視点を与えてくれる。その視点が本道を俯瞰する役に立つ。
脇道だからこそ力まずに済むから視野も広がって見える。本道が煮詰まっているときは得てして本道だけをまっすぐ見つめて視野狭窄していることが多い。そんな時に脇道の視野があると精神的な避難路にもなってくれる。

◎謝辞:今回の昇段に伴いとても多くの方に祝辞を頂き誠にありがとうございます。今後も柔道修行を通じて心身を鍛錬修養し、是に依って世の中を補益できるよう、急がずとも弛まず精進する所存です。

2018年6月13日 渕 佑介